心のオトシドコロあちこち [わんにゃん]
暑い日にふと思う、「しあわせ」ってなんだっけ。
【お互いマイペース】
例えば今年の3月あたりのふたり。
うろうろうろうろ。 うろうろうろうろ。
「なにウロウロやってんだかなぁ。」
と、高みの見物状態のみいちゃん。
そこでイキナリお愛想。「にかっ」 ・・・しらーっ。
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こんな感じで、着かず離れずのわんにゃんコンビ、
はなちゃんとみいちゃん。
みいちゃんは半分外猫なのでちょっとコキタナイ肉球。マジマジ眺めてたら、肉球が顔に見えた!
( ※ 直にイタズラしたのでなく、画像にイタズラしてます。)
みいちゃんの外部屋ははなちゃんのお2階さん。 ・・・で。最近のはなちゃんはこうです。
ていうか、
暫く私もはなちゃんと同じ状態でした。
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みいちゃん亡くなりました。
初夏のある朝、家の目の前で車に轢かれて死んでました。
そんなに広くナイ道路ですが、よくゴロゴロ寝転がっていたので、
「うわー気を付けてよー」と常々思っていたのですが、
こんなことになってしまってすごく気落ちしてしまいました。
家飼いのにゃんこはこんな不幸にはあまり遭わないでしょうが、
半分以上外で生活してたみいちゃんは、そういう危険とは隣り合わせでした。
元々が野良ちゃんだったので、無理やり家に押し込める訳にもいかないと思い、
庭や畑を自由に駆け回る姿を見ては、これでいいんだと自分に言い聞かせてました。
そのまま2年近く経ち、このまま年月は過ぎてゆくのだとばかり思ってました。
その状態がぷっつり断たれ、ぼーっと暫く何も考えられませんでした。
そういえば、ぼんちゃん(同じキジトラ)も事故で亡くなったんだった・・・。
ブログも再開しようと思ってた矢先、
さらにひと月ほど延ばす結果になりました。
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そんな折、内田百閒の「ノラや」を読みました。
居なくなった飼い猫を探し求めて綴る日記のようなもの。
死んでしまった猫と失踪猫とは、設定こそ違いますが、
それはまさに百閒センセイの「猫愛」についてでした。
言っちゃ悪いですが、苦虫噛み潰したようなお顔の百閒センセイ。
イメージは、
草野球しててガチャンとボールが飛び込んだ先にいるヘンクツジジイそのものです。
そのセンセイが毎日居なくなったノラを想い泣くのです。
その迫力に負けてか?そのうち私のココロも何か解れていきました。
そして、
何気なく開いた自分の手帳の隅っこにあった、「仕合わせとは」。
何かで聞いたり読んだりしたのを時々メモしてる走り書きでした。
「仕合わせとは、巡り合わせ。」
巡り合ったものが「仕合わせ」か「不仕合せ」かは自分で決めること。
これを発見したとき、はっとさせられました。
「仕合わせ」とは、誰からのお仕着せでもなく、自分の判断に委ねられてること。
みいちゃんが死んじゃったことは「不仕合せ」だったかもしれない。
でも、居てくれたこの2年弱の間私たちにとても楽しい時間をくれた。
これは良い巡り合わせ、「仕合わせ」だった気がする。
今は居ないし寂しさはまだあるけど、居てくれた時間に感謝しなくちゃ。
幾らか時間が経ってたお陰もあり、かなり前向きになれました。
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【「仕合わせ」も「仕分け」の一種】
「俺って不幸」「アタシって不幸せ」って自分で思ったり言ったりしてる人は、
もしかして、この仕分けが甘いのかもしれないと考えてしまいました。
人生なんて全て巡り合わせで出来てると言っても過言じゃないのに、
「不仕合せ」が多いだけで負けてしまってる気がします。
最後の最後は巡り合わせのイイトコドリ、
「仕合わせ」でオシマイにしたいなぁ。
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八重咲の百日草の庭で。ケムタイ顔してソッポ向くみいちゃんを抱っこして、膝の上で写真を撮ったあの日。
百日草は今年も、こぼれ種で去年と同じように花をたくさん付けています。